梅がほころび、水仙が香り、そして今、桜のつぼみに生気が感じられます。季節は巡り、自然はあたりまえのように「いよいよ春本番」を告げています。
今日は「あたりまえ」という題の詩を紹介させて頂きます。これは、若き医師・井村和清先生が、病の床で綴った手記『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』いう本に納められています。 井村先生が大病院の勤務医として、患者さんに大変慕われながら、多忙な毎日を送っているとき、右膝のがんが見つかります。転移を予防するために右足をそっくり切断、術後のベッドの中で、「右足がない」感覚がどうしても納得できなかったそうです。義足を付けリハビリした後、診療に復帰されますが、まもなく一番恐れていた肺への転移が見つかります。肺がんのために、呼吸がとても苦しい闘病生活の中で、父として、夫として、生きた証を残したいと、書かれたものです。長女の飛鳥ちゃんはまだ一歳、そして二番目のお子さんは、まだ奥さんのお腹の中でした。
あたりまえ
あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなは なぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
おとうさんがいる
おかあさんがいる
手が2本あって、足が2本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせば、なんでもとれる
音が聞こえて声が出る
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又(また) 朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんな あたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ 和清
井村先生はこの三週間後に、31歳の若さで旅立たれました。奥さんと、一人とまだ生まれていない幼な児2人を残して。どんなに無念で、どんなに心残りだったことでしょう。
私の姪たちも同じ年頃に、父を病で亡くしました。しばらくの間、私は街角や公園で、両親と子どもたちの仲の良い家族の姿を眺めては、涙が出たのを思い出します。
ふだん、私たちが「あたりまえだ」と気にも掛けないことも、考えてみると、「とても有り難いことだ」と気づかされます。 生きていること、それは一つの奇跡なのです。あたりまえのこと、それに私たちは感謝し、それぞれに、使命と申すのでしょうか、自分の役割を果たして、「あたりまえ」の社会が続くよう、その一員として貢献して行きたいものです。
今日は「あたりまえ」という詩を紹介しました。
皆様の生き方に、何かのヒントになれば幸いです。今日一日が良き日になりますようにお祈りします。
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